竹内文書

“やっと真実に出会えた”と思えた一冊

“新世界秩序”のページにも書きましたが、

闇波動に調和している人が多ければ多いほど地上は闇波動で満たされます。
光波動に調和している人が多ければ多いほど地上は光波動で満たされます。

私が持っているのは、現在“皇祖皇大神宮”の管長を務める竹内康裕氏によって書かれた“古代の叡智『竹内文書』と神秘秘伝の術事”ですが、私のキネシオロジーでは、この本は光波動です。
戦後、GHQが焚書にした日本の書物は7千冊以上だと言われていますが、それよりもっと前に日本国内で焚書にされてしまったのが、この『竹内文書』です。
竹内家の方々が原典を書き写し、幾度となく弾圧されながらも守り抜いて下さったお陰で、現代の私たちがその内容を知ることができます。
何度も危険な目に合ってきたということが、弾圧を仕掛けてくる人たちにとって不都合な真実が書かれている証拠でしょう。

ここから先は本に書かれている内容の、私が主要だと感じる部分を箇条書きで紹介します。
今まで教えられてきたことと内容がかけ離れているので、受け入れがたいと思う方が大半だと思いますが、今まで教えられてきたことに違和感を感じながら過ごしてきた方には、しっくり来るところがあるかもしれません。  


『竹内文書』とは?

・『古事記』よりずっと昔に書かれた日本最古の文献
・今から約千五百年前武烈天皇(在位498〜506)の治世に、」当時皇祖皇太神宮の神主であった竹内真鳥(平群真鳥)が、神代文字で書かれていた原典を漢字かな交じり文に書き改めたもの
・日本最古の古文書とされている『古事記』が編纂されたのは西暦712年なので、この時点で既に二百年以上古い
・現在竹内康裕氏が管長を務める皇祖皇大神宮(現在は茨城県、元宮は富山県)が、他に類を見ない歴史を伝える『竹内文書』を太古から御神宝として大切に祀り、秘守・伝承してきた
・「人として何が正しくて何が誤りなのか」が、『竹内文書』が最も伝えたいことの根幹
・現在世界各地で宗教の教祖として崇められている人々が、皇祖皇大神宮(元宮の富山県)を訪れ学んでいたことが記されている
→ユダヤ教の指導者モーゼ、神の子として愛を説いたイエス・キリスト、仏教を開いた釈迦、イスラム教最大の預言者ムハンマド(マホメット)、儒教の開祖・孔子、彼らは人々に教えを説く以前に皇祖皇大神宮を密かに訪れ、「正し智慧」を学び、身近な人々に説いた
→原始仏教や原始キリスト教と言われるものが多くの共通点(彼らが皇祖皇大神宮で学んだ「人類がよりよく生きるための智慧」)を持っているのはこのためで、今ではすっかり多様化してしまったが、もとの教えはたった一つ
・「日本は世界の親国」という記述がある
→自らの存在を驕って言っているのではなく、日本人に対して、スメラミコトの国に生を受けた日本人としての誇りと責任を自覚して生きることを教えている
→かつての日本の栄光を誇るための傲慢な歴史書ではなく、人がよりよく生きるための智慧を伝える「実践の書」
・神々が人類に与えた叡智が満ちており、真価は単なる歴史書の範疇に収まるものではない  


 
皇祖皇大神宮 元宮(富山県)
御祭神
御皇城山 皇祖皇大神宮 御祭神


八幡山 皇祖皇大神宮のいわれ
八幡山 皇祖皇大神宮のいわれ
御皇城山 皇祖皇大神宮のいわれ
御皇城山 皇祖皇大神宮のいわれ


『竹内文書』の正統性が認められない理由

・原典が神代文字で書かれていた
・古代日本の姿は、学者たちの理解をはるかに超えるスケールをもって記されていた  

 〜天地の創造から始まる『天神七代』〜
・天地開闢から宇宙・地球の創世、そして神皇(神であり天皇である存在を意味する尊称)が肉体をもって地球の日本に降臨されるまでの時代

 〜世界統一政府を治めていた時代『上古』〜
・現代の日本の天皇の祖先にあたる古代の天皇「スメラミコト」が、一つにまとまった世界の国々を治めていた時代
・天神時代が神々の時代だったのに対し、「五色人(いいろひと・ごしきじん)」と言われる「人類」の時代
・当時の文明は非常に高く、スメラミコトは天空を翔ける「天の浮船」に乗って世界中を巡行し、その土地土地に必要な教育を施し、世界を一つにまとめていたが、立て続けに世界各地に大規模な天変地異が起こり、世界が分断されてしまうと、繋がりを断たれた人々は、孤独・孤立の不安からか、スメラミコトへの敬愛の念を失い、それに伴いスメラミコトの権威も失われていく

 〜人々を懸命に導かれた時代『不合朝』〜
・さまざまな天変地異に見舞われながらも、スメラミコトが人々を懸命に導かれた時代
・日本をはじめ、世界各地に残る神話は、この時代の記憶が元になっている
・『不合朝(ふきあえずちょう)』最後の七十三代スメラミコトにして、『神倭朝(かんやまちょう)』の初代天皇が、神武天皇

 〜天皇が日本一国の天皇となる『神倭朝』〜
・『神倭朝(かんやまちょう)』から世界のスメラミコトは日本一国を統治するだけの天皇になる
・細かな差異はあるものの、ここから先の基本的な天皇の系譜は『古事記』や『日本書紀』の記録とほぼ一致している  

・昭和11年、神宮の古文書や御神宝を偽書・捏造品と断じた学者らが、国民信仰の中心である伊勢神宮に対する「不敬」に当たるとして、皇祖皇大神宮第六十六代管長竹内巨麿氏を起訴したが、学者らが自説を完全に立証できないまま竹内巨麿氏の無罪が確定、いまだに日本の学界は正統性を認めない  


前管長の著書『神代の万国史』のモーゼに関する記載

・不合朝第六十九代・神足別豊耡天皇二百年の三月十六日、モーゼが皇祖皇大神宮にやってきて、その後十二年間滞在していた
・度重なる弾圧で『神代の万国史』が全歴史を網羅できていないこともあり、何を学んだのか、その十二年間は何をしたのか、などの詳しい事は一切書かれていないが、モーゼ来日の証拠である御神宝は今も神宮に残っている
・日本の山に太古のピラミッドを発見した酒井勝軍氏が、昭和四年に神宮を訪れて、前々管長巨麿氏の助力を得て書き上げた『参千年間日本に秘蔵せられたるモーゼの裏十戎』によると、
→『神代の万国史』のモーゼの来日記録はモーゼの二度目の来日で、現在の石川県羽咋郡の宝達水門に船で到着した
→来日目的は、天皇に捧げた五つの宝物の一つ「十戒」が、前回人に説く許可が得られなかったため、再度公布許可をもらいに来たが、許可が下りたのは来日十二年目だった
→その間宝達山に住み、結婚して三人の子供に恵まれたが、妻子を残してユダヤに戻り、「十戒」をユダヤの人々に授けた  


前管長の著書『神代の万国史』のイエスに関する記載

・神倭朝第十一代・垂仁天皇時代、イエスは十字架の難を、弟の身代わりによって逃れて、日本に来た
・父の国、八戸に上陸、戸来村に住み、百十八歳の長寿を保った
・モーゼ同様、イエスに関する記録も『神代の万国史』で確認できるのはこれだけだが、山根キクという女性が神宮の古文献を調べて書いた『光は東方より』『キリストは日本で死んでいる』には記録が残されている
→十二月二十五日はイエスの命日で、誕生日は一月五日、日本で百十八歳に亡くなった
→新約聖書では空白の十三歳から三十歳までのうち、十八歳から二十三歳までの五年間、皇祖皇大神宮に武雄心親王の弟子として滞在し、さまざまな神の教えや、軌跡を起こした神秘的な技も神宮で学んだ
→修行を終えたイエスは天皇から国王の印を授かり、「必ず生きて再び戻ってくる」と約束をして、母国で神の教えを伝えるために帰国した
→母国に帰る途中(二十三歳から三十歳までの七年間)、イタリアのモナコに寄った
→イエスと同じ年の十二月六日に生まれたイエスと瓜二つの弟イスキリが、十字架に磔にされた
→二人は「天皇との約束」の重みをよく分かっていて、「生きて再び日本に戻る」という天皇との約束があったことを知っていたイスキリからイエスに申し出され、悩んだ末にイエスは弟の申し出を受け入れて再び日本に戻ることを決意、このときもさまざまな国を経てから、日本の青森県八戸市に来た
→その後イエスは日本名「八戸太郎天空坊」を名乗り、青森県八戸市の戸来村に自分の身代わりとなったイスキリの墓を作り、日本まで持ってきた両親の骨(弟とほぼ同時期に亡くなった)から御神骨造を作った
→ヨセフとマリアの御神骨造を神宮に奉納することを希望したが、奉納を認められたのは六十六年後(イエスは百五歳)で、イエスの恩師・武雄心親王の働きかけがあってのことだった
→戸来村にはイエスの墓「十来塚」とイスキリの墓「十代墓」が並んでいる  


イエスが亡くなった場所と亡くなった年齢

“新世界秩序”のページにも書きましたが、昨年末から未来が想像できなくなってしまったので、今年来年に人生の幕を閉じることになったとしても悔いのないように、イエスの亡くなった場所とお墓に出向いて、今まで無事に生きてこられたことへのお礼が言いたい、と思い、3月末にイエスが亡くなったとされている、徳島県美馬市にある剣山(つるぎやま)の登山道入口のコリトリへ、GWにイエスとイスキリのお墓がある青森県八戸市の戸来村(現在は新郷村)に行く計画を立てました。

3月末に予定していた徳島県の剣山は、山に向かう道の数か所がマップアプリでは通行止めになっていて、観光気分で行くようなところではないことに気付き断念しました。
別の目的でみていたユーチューブの最後の方にイエスが亡くなった場所の話が出て、お墓が青森県にあるのに亡くなったのは徳島県?!と疑問に思ったのですが、剣山の西側にはキリスト村があるとも言っていたので、ずっと気になっていました。

GWに予定していた青森県の戸来村へは、先日行くことができました!
キリストの里公園の敷地内に“キリストの里伝承館”があり、そこにあった資料ではイエスの亡くなった年齢が106歳になっていて、竹内文書では118歳になっているのに、なぜ違うのかが謎。
山根キクさんの著書『光は東方より』の電子書籍版を購入したので、何か記載があるかもしれません。確認してみます。
イスキリのお墓には、イエスが母国より持ち帰ったイスキリの片方の耳と遺骨の一部を埋葬したと、イエスの遺書に書かれていました。

その夜、また別の目的でみていたユーチューブの後半で、三種の神器が奪われる危険性があったので、徳島県剣山の洞窟内に一時期保管されていた、という話が出ました。
それが本当なら、イエスは亡くなるまで布教活動はせずに日本各地を行脚していたそうなので、剣山の登山道入口で亡くなっても不思議ではない気がしました。
山根キクさんの著書『光は東方より』に亡くなった場所についても記載があるかもしれないので、読んで確認してみます。


イエスの墓「十来塚」
イエスの墓「十来塚」
イスキリの墓「十代墓」
イスキリの墓「十代墓」


キリストの墓 案内
キリストの墓 案内
エルサレム市と新郷の友好の証
エルサレム市と新郷の友好の証


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